みりいが生まれた日

 なんで生まれてきたんだろう――


 泥だらけになった自分の姿が鏡に映る。地面にはビリビリに破かれた教科書や投げ捨てられた筆記用具などが泥塗れになって捨てられていた。激しく降る雨の中、私は鏡に映るみすぼらしい自分の姿を暫く呆然と眺めていた。

 ――はぁ……早く帰らないとお母さんに怒られちゃう……。

 私は周りに散らばっている物をかき集めて泥でほとんど茶色くなったリュックに押し込んだ。全部の物が茶色く濡れているのでまるで大きな泥団子を詰めているみたいだ。

 早く帰らなければまたお母さんにこっぴどく叱られてしまうが本当は帰りたくなかった。あんな家に帰るくらいならどこか遠くの場所に行きたいが子供の自分にそんな余力や経済力など無い。いくら成績が良くてもお勉強が出来ても家を飛び出せるくらいの行動力が自分には無かった。

 少しでも泥が落ちるように外の水道で服やリュックなどを洗う。先生や他の園児が来ていないか確認しながら素早く洗い流した。こんなところを誰かに見られてはいけない。ましてや先生なんかに見られたりしたら何て言われるか……。

 泥はある程度落ちたもののそれは表面に付着した泥だけで、繊維に染み込んでしまった泥は全く落ちなかった。

 ――どうしよう……。

 あとは雨で流されるのを期待するしかないと思い、リュックを背負った。だから敢えて傘を差さない。最初から雨に濡れていたため今更傘など差しても無駄だ。

 私は豪雨の中、足早に家へと続く道を歩いた。信号待ちをしている間、ふと反対側にあるレストランの駐車場に止まった車に目をやる。車の中から家族が出てきた。両親と思われる大人と一人の女の子。私と同じ制服を着ていることから私と同じ幼稚園に通っている子だと分かった。幼稚園帰りかと思われるその子が母親と父親と手を繋いでレストランに入っていく光景が目に入ってしまい、私は目を逸らした。私には後にも先にも訪れることがないであろう光景。両親の手なんて繋いだこともなければ繋がれたこともない。送り迎えなんてされたことすらない。あの子の両親はあの子に向けて微笑んでいたが私の両親は私に微笑んでくれたことなど一度もなかった。その代わり、私に与えられたのは罵声と暴力と度重なる嫌がらせだ。

 信号が青に変わり、私はまた足早に歩いた。家に近づく度に鼓動が早くなっていく。家に行くにも幼稚園に行くにも緊張してしまう。ようやく家に辿り着き、踏み台の上に立って玄関の扉に鍵を差し込んだ。カチャリと音がし、扉が開く音がする。

「ただいま……」

 恐る恐る扉を開けるとずっと待っていたのか、鬼のような形相でお母さんが腕を組んで仁王立ちしていた。雨で濡れた全身がさらに冷たくなるのを感じた。

「ご、め……なさ……」

 私は咄嗟に謝罪を口にした。お母さんはかなり怒っている。それもそうだ。こんな遅い時間に帰ってきてしかも泥と雨でずぶ濡れになっているのだから怒って当然だろう。だけど怖かった。こういう時のお母さんは怒りだすとなかなか止められない。気が済むまで汚い言葉で罵ったり殴ったりするから私がいくら謝ったって許してはくれないのだ。

「……っ!!」

 お母さんは無言で私の髪を引っ張り、私を風呂場まで引き摺った。湯船には既にお湯が張っており、リュックごと私は湯船に全身を沈められた。

 ――苦しい……。

 湯船はお湯ではなく、普通の水だった。ただでさえ雨に濡れて肌寒いのに追い討ちをかけるように冷水なんて、そろそろ風邪が引きそうだ。いつの間にか水中で首を絞められ、息ができず私は必死にお母さんの手を解こうとしたり水面から顔を出そうとしたりした。だが、大人の力には適わず一瞬で水中に戻されてしまう。

「やっ……めて!! ……っ……くる……ゴホッ……し……! やめ……てっ!!」

 水面に顔を出しては咳き込みながらそう訴える。だが聞いてはくれなかった。

「時間が守れない子なんていりません!! それになんでびしょびしょなの?! リュックもすごく汚れてるじゃない!! あんた今まで何してたの?!」

 そんなこと聞かれても水中にいる限り答えられない。お母さんは観念したのか私を湯船から引き上げると今度は床に叩きつけた。

「で、なんでそんなに汚れてるの?」

「はぁ……はぁ……ケホッ……ケホッ……」

 咳き込んでしまい上手く話せない。しかしお母さんはそれでもお構いなく、

「さっさと喋れよ! この愚図!!」

と怒鳴り思いきり私の腹を蹴った。幼稚園でも蹴られて家でも蹴られる……私は一体前世でどんな極悪非道なことをしたのだろう。

「答えなさいっつってんの!!」

 またお母さんに蹴られた。早く言わなければずっと蹴られてしまう。

「はぁ……ようち、えんで……ケホッ……いじめら、れ……て……ケホッケホッ! それで……はぁ……リュックとか、捨てられ……ケホッ……おそく……なっ……」

「はぁ?! いじめられたァ? この嘘つき!! どうせ、どっかほっつき歩いてそうなったんでしょ!」

 お母さんは私の言うことを信じてくれない。いや、自分の行為を正当化するために私が嘘をついていると言っているのかもしれない。お母さんは私がいじめられていることを知っている。もしいじめを認めてしまえば何も言えなくなるからだ。その後、私はお母さんの気が済むまで何時間も暴力や暴言を受けていた。

「いい? 罰として今日一日はずっとお風呂に閉じこもってなさい!」

 そう言われ、お母さんは私を風呂場に残し、私が出られないように外側から鍵をかけた。家の風呂場に外側の鍵がある理由はお母さんが私を監禁するために改造したからだ。お母さんは建築業で働いており、家の設計や修理が得意である。この家もお母さんが建てたものであり、私に罰を与えるために家中に様々な拷問器具や仕掛けがたくさんある。この家は私にとって収容所みたいなものだ。

 私は泣きながら自分の膝を抱えた。幼稚園でも虐められ、家でも虐められる私の居場所は一体どこにあるのだろう。親も幼稚園のみんなもいない世界、私のことを誰も知らない世界に行きたいと何度願ったことか。私が消えれば親も幼稚園のみんなも清々するだろう。それなのに願いは届かず、ずっとずーっと私は代わり映えしない地獄の日々を送っている。

 たくさん涙を流した。

 声を押し殺して泣きじゃくった。

 いくら泣こうが何も変わらず、時間だけが過ぎていった。そのうち、お父さんが風呂場に入ってきて「一緒にお風呂に入ろう」と言ってきた。あぁ、また始まるのか……。

 何も見たくない何も聞きたくない何も考えたくない何も感じたくない! 私は目を瞑って頭を抱えようとするがお父さんに両手を振りほどかれ、地面に叩きつけられた。

 ――いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ!!

 既に消耗しきっている私の中に直視したくない現実が侵入してきて私を内側から壊していったような気がした。




******




 私が目覚めたのは風呂場に光が射し込んだ頃だった。いつから寝ていたのか分からないがとりあえず地獄の時間が終わったことに胸を撫で下ろした。だがそれも束の間で、お母さんの怒号が聞こえて私はびしょ濡れのまま急いで風呂場から出た。体をろくに拭きもせずにまだ乾ききっていない制服を着る。制服の冷たい感触が気持ち悪い……。濡れて重たくなったリュックを背負うと、これ以上お母さんの声を聞きたくないため逃げるように家を飛び出した。

 一難去ってまた一難。私は次の地獄に到着してしまった。いつものなかま、いつものせんせいたち。楽しくないようちえんのはじまりだ……。

 今日も私はいつものように遊ばれて家に帰るといつものようにお母さんとお父さんの玩具にされ、気がつくと夜を迎えていた。お母さんとお父さんはもう寝ている。私は寝られない。なぜなら私には寝ることすら許されないように感じているから。自分の居場所ではないこの家に私は存在してはいけないのだ。もう全てを諦めよう。我慢することもいつか親や幼稚園のみんなと仲良くできるようになることも、全部全部全部全部諦めよう。もしかしたら私は生まれてくる場所を間違えたのかもしれない。いや、最初から存在してはいけなかったのだ。私は間違って生まれてしまったからきっとこんな目に遭っているのだろう。ならば、選択肢は一つしかない。私は台所に掛かっている細長いタオルを手に取り、テーブルの椅子を階段の所まで持ってきた。椅子の上によじ登り、タオルを階段の手すりの柵に掛けてきつく結ぶ。そしてぶら下がったタオルで自分の頭がギリギリ入るくらいの輪っかを作った。頭にタオルの輪っかを通して完成だ。あとは首に全体重を掛けて椅子を蹴るだけ。最初から何も思い残すことは無かった。椅子を蹴れば私はこの地獄から解放されて自由になれる。そう考えるだけでなんだか幸せになってきたような気がした。何の迷いもなく椅子を蹴ると同時に私の視界は真っ白になった。




******




「あ……あれ……? こ、こは……」

 私はなぜか薄暗い家の中で床に倒れていた。視界の端には横倒しになっている椅子が見えた。寝ていたのか? 私はなぜこんな所で寝ているのか。それよりもなぜ頭と喉がズキズキと痛むのだろう。

「気がついたか?」

 低い声が頭上から聞こえてきた。ゆっくりと起き上がり、見上げると長い黒髪に黒い羽根で黒いマントを羽織った王様みたいな人が私を見下ろしていた。その人を見て私は徐々に思い出した。私はさっき首を吊って死のうとしたのだと。もしかしたら私は無事に死んで目の前の人は迎えに来た神様なのかもしれない。

「や、やった! 私死んだんだ!」

 私は飛び上がって喜んだ。

「何を言っている。床に落ちているタオルを見てみろ」

 私はその人に言われるまま床に落ちたタオルを見た。タオルは真っ二つに裂かれている。

「え? なに?」

「まだ分からないのか? 君は死んでないぞ」

「は、え? はぁ?」

 はじめはよく分からなかったがだんだんと状況を理解してきて私は青ざめた。

「う、そ……」

 死ねなかったことに酷く絶望し、床に膝と手をついた。

「じゃあ、あなたは……だれなの?」

「私は魔王だ。残念だったな。死なせてやれなくて。私がタオルを切らなければ君は死んでいた」

「なんで……なんで切ったの?」

「まだ死ぬのは早いと感じたからだ」

 どこか早いのだろうか。もう現実とおさらばしたいくらい疲れているのに。死ぬのに早いも遅いもない。

「君の死を無駄にした分私が責任を取る。君を死よりも楽しい世界に誘ってやろう」

「もう生きるのはこりごりよ」

「さぁ、それはどうかな」

 魔王と名乗る人はニヤリと笑うと黒い霧状に変化して私の胸の辺りに吸い寄せられるように入っていった。するとなんだか自分が自分でなくなるような感覚に陥った。

 ――ここは……どこだっけ?

「手始めに害虫駆除からしようか」

 頭の中で魔王の声が聞こえてきて、私は何かに操られるかのように片手を宙に翳した。たちまち炎が床から生えてくるように上がり一秒も経たないうちに家が炎に包まれた。

「あつっ……! これ私も燃えるんじゃないの?」

「君は燃えないよ。私がそうしてるからね」

 外が騒がしく感じ、気になって外へ出てみると家だけではなく町全体が炎に包まれていた。燃えた家の一部や電柱、木が倒れて逃げる人々を押し潰した。悲鳴があちこちから聞こえてきてまるで地獄絵図のようだ。人々はパニックになっていてそれどころではないのか、不思議なことに誰も私の姿が見えていないようだった。呆然と逃げ回る人々と燃えていく町を眺めていると、ふっと体が軽くなったような感覚がした。隣に人の気配を感じ、隣を見ると魔王がいた。

「ふっ……君が地獄だと思っていた場所はこの通り本物の地獄になったよ。ところで君、君の名前を教えてくれないかい?」

 魔王に聞かれて私は頭が真っ白になった。自分の名前もこの場所も分からない。私は一体誰でどこから来たのだろう。

「その様子だと忘れてしまったみたいだね。上手くいったみたいだ」

 何が上手くいったのだろうか。

「私が君に名前を与えてやろう。今日から君の名前は"みりい"だ。どうだ? 良いだろう」

 魔王は得意げに笑った。

「みりい……みりい……私の、名前」

 私は魔王から与えられた名前を何度も口にした。何度も口にしていると不思議と全てがどうでもよくなってきた。私に親という存在がいたかどうか分からないけど目の前の魔王を自分の親であるかのように感じる。なんだろう、この不思議な感覚は。

「気に入ってくれたようだね。私の名前はルシファーだ」

「るしふぁー……」

「ルシファーでも魔王様でも好きな形で呼んでくれて構わない」

「ルシファー……ルシファー様!」

「ははは。さぁ、私と共に生きようか。安心したまえ。これから君にとって最高の世界になる。よく見ていなさい」

「はい、ルシファー様」

 私は差し伸べられたルシファー様の手を取った。"みりい"になる前の私もこの場所も何も知らないけどルシファー様と一緒ならきっと楽しい日々になると感じた。






〔END〕